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春めきを通り越して初夏のような感さえある陽気の中、
働き者のマフィアの上級幹部殿は、
今宵の殲滅案件への下見に出ていた部下らと打ち合わせるため、
港近くの出先企業まで脚を伸ばしていたその帰途にあり。
「……。」
何となく回り道をしたことに他意はない。
探偵社が近いなとは思ったが、
愛しいあの子は就業中だろうし、午後からは芥川と展示会に行くとの話。
なので、わざわざ脚を向けるでもないと、
むしろそういう反応が出た自分の病膏肓ぶりに苦笑をしつつ、
幹線道路側へハンドルを切って通り過ぎかかったのだが。
「……ん?」
そんな視野の中を、
愛しい少年や胸糞悪くなる元相棒とは違う“見慣れた存在”が横切った。
この陽気ならそれでも寒くはなかろうが、
擦り切れた白衣姿で街中を闊歩するのは悪目立ちするにもかかわらず、
そこへ下駄ばきまで重ねる我流を崩さない困った男。
立派な指名手配犯のくせに何とまあ大胆なことよと
怪訝そうに首を傾げて行方を追えば、
自分が何とはなく気付いた探偵社の方角へ向かっているではないか。
よもや襲撃? いやいや今現在は停戦中で、余計な騒ぎは首領からご法度とされている。
そういう建前プラス、
愛しい子の居場所の一つならば そのまま我が庭も同じという把握のある場所、
其処への接近とは何事かという微妙な警戒心が その頼もしい胸板のうちにて突々かれた模様。
そうと断じればそこからの行動も素早く、
適当な路地口へ車を停め置き、不審なお仲間の後をこそりと尾ければ、
其奴の視線の先にあたろう、道の向こうからやって来る人影があり。
それは正に中也が案じたそのご本人、中島敦らしき姿であったものの…。
「…何だありゃあ。」
何でか芥川を姫抱きにし、虎の異能全開で、宙を飛ぶよに駆けて来たのだから尋常ではない。
まさかあの黒獣の青年が怪我でも負ったか、それに匹敵しそうな何か一大事かと
幹部殿の胸中にて警戒モードが更なる緊張を帯びかかったが、
「うむうむ、なかなかの好反応だねぇ。」
さささっと物陰へ身を寄せつつも、やはりやはり彼が標的だったか、
虎の少年への観察は続ける所存らしき、下駄ばきのっぽの科学班筆頭。
俗にいうところの“歓喜に震えつつ”という興奮状態なのだろう、
口許をにやにやとほころばせ、どう見たってやに下がっているところから、
「……梶井、ちょっと話がある。」
過去にも似たような場面が多々あったのだろう経験則から 色々と察した中也が、
茶房のドア前から様子を窺う胡乱な科学者の後ろ首をむんずと取ったのは言うまでもなく。
「……ほほぉ〜〜〜〜?」
脅しを掛けつつ概要を訊いて、取るものもとりあえず敦の状態を解くのが最優先だとし、
やはり“うずまき”へ入ろうと降りてきた与謝野女医へ協力を要請。
「せんせえ良いところへ。手持ちの気付け薬はあるか?」
「ああ、アンモニアと酢とどっちが良いかね。」
流石は理系で しかも探偵社員だ、
この状況から半分くらいは何かしら察したそこへ、
これこれこうこうと事の次第をざっくり話したところ、
敦はネコ科だから柑橘類のアロマも利くかもねと、何とも話が早い女傑で。
ふふふと笑って用意した与謝野がガーゼに染ませたのが何だったかは不明だが、
「敦。」
「敦、ちょっと辛抱しな。」
茶房へ文字通りの乱入を果たしつつ、
混乱状態にあったらしい虎の子の
それでなくとも鋭敏な鼻へと“気つけ”の薬をあてがえば。
よほどにきつかったか、ひゃあと慄きながら
くしゃみを連発してくれたので、
やっとのこと厄介な “疑似恋愛モード”を解くことが出来たという次第。
そう、レモンへの歪な情愛をこじらせている困った武装科学者は、
只今現在そんなややこしい薬を開発中だったそうで。
「大体、何でまた “疑似恋愛モード”なんてもんが要りようなんだ。」
知らぬ間に被検体にされていた、相変わらず不運とよしみの深い白の少年には、
そこだけは幸いなことに…と言って良いものか、
自分に何が起きていたのかまるきり覚えていないようで。
どうしてこの場所にいるものかと怪訝そうにしていたものの、
会う予定ではなかった中也の姿にそれは嬉しそうに笑んで見せ、
そうだった出掛けるんだったと、
きっと今日一番振り回された貧乏くじ、
芥川の手を取り本来の目的へ送り出されてくれての、さて。
さあさあここからは大人の時間だ、キリキリ白状してもらおうかと。
探偵社のいとけない調査員を勝手に被検体にしたことへの申し開きを求む専属女医さんと、
疑似恋愛の対象にされたらしい黒獣の青年だったことへ物申したい包帯の美丈夫さんと。
選りにもよってどうして あの…素直で無垢で頑張り屋さんで、
そうそう公言は出来ないが、愛しくってしょうがない子虎の少年に目をつけたかなぁと、
何をどう申し開いてもただじゃあ済まさぬのだろう赤毛の幹部様とが、
店の外から引き摺って来た、こたびの騒動の張本人さんを取り囲んで問いただせば。
「違う違う。そんな状態を導いたのは誤算だよ。」
目を離した隙に逃げ出さないようにと、
店の壁越しでもそうそうは解けぬ重力操作でその場に貼り付けにされていたせいだろう、
腰が痛むとトントンと拳を当ててぼやきつつ、
「そういう展開になったなんてこっちも驚いてるほどさ。
何たって本来の功能は “苦手克服”だったんだから。」
それは朗らかに言い放った梶井殿、
檸檬爆弾は既に完結しているものとして、
現在は人体における生態工学への飽くなき探求心が留まるところを知らないらしく。
「偏桃体という脳組織はご存知かな?」
結構恐ろしい顔ぶれに取り囲まれているというに、
それは軽快な語調を一向に崩さぬまま、科学者殿は解説を始める。
「情動反応の処理と記憶において主要な役割を持つ、脳の部位。
極端な言い方をするなら、存在の好き嫌い、
自分へ恐怖を与えるものか心地よさを与えるものかを断じる部位であり、
経験値や知恵を蓄積してある大脳皮質を経由した、論理的な判断よりも素早く、
逃げるか戦うかを瞬発的に弾き出す、即断対処用の部位とも言える。」
人の複雑な感情や心理は、生存してゆく上での基本的な判断の上へ培われてゆくのであり、
そしてその始まりは、この偏桃体が見分ける“快と不快”の二択。
自分へ不安を齎さない存在は、安堵をくれる、好いたらしい人として認知され、
それが所謂 “恋心”を育てもするわけで。
「人の脳機能において 他の動物とは比較にならないほど発達しているのが
理性をつかさどる前頭前野で、
そこの働きによって偏桃体は勝手に暴走せぬようがっちり制御されているけれど、」
逆に言えば、そうまでがっちりと論理や何やで制御されているほどに、
生き残るためには必要とされる恐怖回避の情動を蓄積させている部位ともいえ。
では、
そうやって貯め込んだ不安や恐怖を、
塗り替えたり書き換えたりが出来たらどうなるだろうか。
熊やサメでもあるまいに、命まで奪うはずがない小さな子犬でさえ
恐ろしいと思うのは、ついついその身がひくりと慄くのは、
理屈はどうあれ、遠き日に体感した情動情報の反射に引きずられる結果であり。
「そういった苦手意識を削減し、
もっと大胆に行動できるようになる作用を齎すアロマをだね。」
「はた迷惑にも作り上げてしまったというのだね?」
それなりの皮肉を込めた太宰の言いようへも、
ピンと来ないか、それとも彼にしてみりゃ上々な結果が得られたからか、
そのまま “むははは…っ”とボスキャラの高笑いを披露しそうになっており。
「私に掛かれば下手な啓蒙教育なんぞも及ばない、意識操作もお手の物ということさ。
ただ、臨床にあたっては一つ難点があってねぇ。
そういう効果を得たい、感情面への波及が知りたいのに
動物実験では安全性しか検証できないから、
そういや犬猿の二人が居たなぁと思い出し、その片やへ振りかけて。」
「くぉらっっ 」
確かにマフィアですよ、人道?そんなの問われない。
とはいえ、一般人が巻き込まれるよな怪しい結果や現象が取り沙汰されれば警察も動こうし、
「どっからも苦情が来ないよう、
上から言い含められてるとかそれなりの罰を受けるべき対象だとか、
何から何までちゃんとお膳立てされてる範囲内でこなすもんだろうが、臨床ってのはさ。」
「……与謝野せんせえ、貴女がそれ言うとちょっと怖い。」
声高らかに言い放ったわけじゃあない、
一応マスターや奥様もいる空間だということで、こちら陣営は声を低めていたれども。
それが却って陰に籠って物凄い口調になっていたその上、
とどめにと どっから出したか細身のメスをぐうに握って、
テーブルの上、カトラリーを入れてあった細身の籐籠へぶっさーっと突き立て、
刃で刺し通して見せたものだから、
「ひぃぃいいぃぃ〜〜〜〜っ。」
その真ぁっ黒な脅しにはさすがに怯えて震え上がった梶井氏で。
「と、虎くんはあんまり薬品への免疫がなさそうだったんで、うってつけだと思ったんですっ。」
「ほほぉ?」
「だっ、だからっ。
少量でも効果が現れそうだったし、少量ならばすぐにも代謝して危険に至ることもなかろうと。」
現に、くさめをさせたら あっという間に解けたでしょうと、
彼なりの“人道対処”はしてあったと言いたいか、そんな言い訳を並べるが。
それへは赤毛の五大幹部様が、
頭に乗っけた黒帽子をぐいと押さえつけつつ しょっぱそうな顔になる。
「…いろいろと情報が遅いのは相変わらずだよな、手前。」
あの二人が仲良しか犬猿かはともかく、
今のところは停戦協定中だ、武装探偵社に手ぇ出すんはご法度だ、と。
もはやそれが常態化している背景を告げてやったが、
「おや、そうだったんですか。それは気が付きませなんだ。」
でも、その身を滅ぼすような毒じゃあなし、さほど問題はないでしょう。
しかもしかも。誤作動回避のため、
発動直前に捨て鐘よろしく くしゃみの三回目という秒読み機能までつけたんですよ?
大したもんでしょう?なぞと しゃあしゃあと付け足す彼で。
「捨て鐘?」
「お寺やなんかで時報代わりの鐘を撞くとき、
今から撞きますよという知らせのために一回余計に撞くことを云うのさ。
それは数えず 次のから数えてああ三時か五時かとなる。」
そういう猶予を設定してあったのだと胸を張りたい彼なのだろう。
「思わぬ相手へ懸想しちゃああとあと厄介ですからね。」
鹿爪らしく云う彼へ、
「そんな覚醒剤もどき、何の役に立つってんだ。ごら。」
またまた役にも立たぬもので騒ぎを起こしやがってという中也の癇癪へは、
科学を解さぬ存在はこれだからと、
両腕を左右に振り分け、骨ばった肩をひょいとすくめて、
いかにも“やれやれ”という素振りを示した、まだ強気な彼だったものの、
「そうだね。判りやすい例でいえば、苦手な犬を好きになったとしたら
怯えなくなるどころか任務そっちのけで構いたくってやまぬ対象になっちゃうんじゃないかな?」
何せ、被検者の尋常ではない固執を目の当たりにしたばかり。
日頃から余程のことでもない限りは動じない太宰の落ち着きが
一瞬ながら拭われかけたほどに、
芥川への度を越した執着を示して見せた敦だったのは、
当然 その怪しいアロマとやらのせいなのだろうから。
図らずも肝が冷えたその意趣返しも兼ねてのこと、
何もかも投げ打つほどの固執になっては意味がなかろうとする太宰の細やかな例えば解説へは、
「…あ。」
此処までは何とか…唯我独尊型の虚勢を張ってた梶井氏、
虚を突かれたようにその表情が固まってしまい、声まで止まったものだから、
「おいおい 」
「そんな初手の懸念さえ想定してなかったってのかい?」
これだから実験室しか知らない世間知らずはと、
中也が鬼瓦級の憤怒を示して怒り、与謝野せんせえが天井を見やって呆れたのは言うまでもなく。
「ともかく、その困った薬は廃棄しな。」
「え〜?」
「えーじゃねぇっ 」
何なら手前に嗅がせて
八景島シーパラダイスの海獣エリアでも ずーらしあのサルのエリアんでも放置してやろうか?
そそそそれは勘弁っっ。と、素早く拒否の返答があったので、
とんでもない事態なのだと やっと察したかと、
取り囲んでいた三人がやれやれと肩を落とした昼下がりだったそうな。
ちなみに敦は何も覚えてないらしい。
『そういう夢でも見てたかなぁという程度の残存記憶があるかどうかですよ。』
『何で判るんだよ、ああ"?』
『実際に胸キュンしてから脳に刻まれる記憶とは順番が違うからですよぉ〜。』
大事な愛し子のことだけに、
半端な言いようは許さんぞと 怪力無双を発揮して胸倉掴んで振り回す中也の激昂ぶりに。
今度こそ猛反省しつつそういう心配は要りませんと念を押した梶井氏の言う通りか、
芥川と連れ立って出向いた お目当てのジオラマとレイアウト展で、
それは精巧な模型や野山の風景を再現したジオラマに無邪気に感嘆していたものの、
「そういや、芥川、顎の下あたりに虫刺されの跡があったぞ?」
「???」
唐突に言われて、キョトンとする黒の兄人へ、
「外での張り込みとか、そろそろ虫よけ使わないといけないぞ?」
ほら此処と手を伸べて、するりと指先が差し向けられたのは、
太宰に巻かれたストールの縁。
耳の真下辺りの おとがいの縁を此処と指摘しつつ、
「あれ? でも何でこんなところを見た覚えがあるんだろう、」
自分から言い出しといて “あれれぇ?”と怪訝そうな顔をする。
身長差の関係で、少しほど屈み込まなきゃ見えないような場所であり。
若しくは横抱きに抱えるとかすれば何とか?
うむむ?と双眸顰めて考え込みかかる弟くんなのへ、
「な、何かの拍子に目に入ったのだろうさ。」
「そっかぁ。そうだね。ボク、目がいいし♪」
お後がよろしいようで〜〜♪
〜 Fine 〜 18.04.13.〜04.24.
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*何か妙なくだりを挟み込んだおかげで、
いつもと変わらない長い話になっちゃったですね、すいません。
敦くんが妙な方向へ突っ走ってしまったところ、
慣れないにもほどがあったせいか。首の痛いのが絶好調になって大変でございました。
さあ、そろそろお誕生日記念のお話も考えないとねぇ。とほほん。

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